「絶望した!」-今日もみんなと絶望できる幸せ-糸色望の絶望健康術


「先生も昔試験の前に言ったんじゃないですか 『全然勉強してないよ』って」
「言いました!何度も! 負けるための準備!後ろ向きの予防!それが予防線ですね!」

  第四十八話『ヨボー家の人々』より

流れる涙は 人間だから
弱いあなたは 人間らしい

  武田鉄也「天までとどけ」より


【目次】
●我が祖父に見る糸色望の面影
●心の弱い大人の生き方
●未来に希望を託す職を選んだ絶望男
●「さよなら絶望先生」のカタルシス効果
●みんなと絶望できる幸せ

(この文を、今年傘寿を迎えた親愛なる我が祖父に捧げる。)



我が祖父に見る糸色望の面影

いきなり私事になるが、私には今年、齢80を迎えた祖父がいる。
身内が言うのもなんだが、デヴィット・キャラダイン似で若い頃の写真を見ても結構男前だ。なんでこの辺が私に遺伝していないのか本当に恨めしい。そんな彼だが、ちょっとした手術で妙に怖気づいたり、最近は「もうそろそろ俺もお迎えが・・・」と言い始めるなど、少し小心者なところがある(※注:バリバリの健康体です)。ちなみにこちらは私もキッチリ受け継いでいるのだから、もう本当に恨めしい。

彼は自分の好きな相撲や高校野球を観戦するとき、必ずといって良いほど負けそうな側を応援する。そう、所謂”判官贔屓”というやつだ。だが小心者故に応援する様は非常に滑稽である。

例えば相手力士が上手を取っただけで

「ああ、もうこら負くる。」

と画面から目を背ける。また、応援している高校がまだ結果的に2点リードしているのに、相手校が1点でも取り返すと

「あーいた、こらでけんばい。(こりゃもうダメだ)」

と独り言を連呼する。

極めつけには、なんと突然テレビを消し、勝負結果を見ないままその場を去ってしまう。他の家族がテレビを見ていても関係なくだ。*1

唐突にテレビを消される側としては苦笑せざるを得ない。でも私は彼の行動がなんとなく理解できる気がする。

応援している方がちょっと劣勢になっただけなのに、もう負けるかのような物言いをするのは、別に本気で「負ける」と思っているわけでも、負けて欲しいわけでもない。実際に負けたとき、その事実を受け止めるというストレスを軽減させるための”慣らし”なのだと思う。突然「負け」という現実から目を背けてしまうのは、敗者(弱者)の辛さや悔しさを人一倍理解した、感受性の高い優しい人だからだ。

私にはそんな祖父の姿が何だか妙に絶望先生こと糸色望(いとしきのぞむ)と重なって見える。そう。祖父も、望も、心の弱い大人なのである。


心の弱い大人の生き方

さよなら絶望先生

改めて見るとなんとも辛気臭いタイトルだ。実際はギャグ漫画だけれど、久米田康治という人間がどんな漫画家かを知らなければ「晴れた日は学校を休んで」のようなダウナーな漫画を連想してしまう。

主人公の糸色望は日常の些細なことに対してもネガティブな思考が働き、ことあるごとに「絶望した!」を連呼しているダメ教師だ。第一話の冒頭でいきなり自殺しようとする彼だが、読者のみなさんはとっくにお気づきだろう。本気で死ぬ気などこれっぽっちもない。彼の場合、ただ周りの気を引きたいがためのパフォーマンスである。首吊りを「芸風」と自ら言い切る。なんとも厄介な大人だ。

だが彼が絶望したり死にたがるのは単に周りの気を引くためだけか?

否。やはり望はこの世を疎んでいる。”絶望”と呼べるほど世間を信頼出来なくなっているかと言えば、かなり怪しいもんだが、あれだけ色々な絶望要素を見つけ出してはあげつらうのだから、単なる目立ちたがり屋にできる芸当ではない。彼がこの人間社会を”生き難い”と捉えているのは疑いようがなかろう。一方で、他人の発言に一喜一憂したり、口車に乗せられて態度がコロコロ変わる。自分に対する自信の無さが窺える。

じゃあ、詰まるところ、彼にとっての「絶望」とは一体何だろう?
我々が想像するように、望みを絶たれ、生きる気力を無くした状態だろうか?

違う。彼は、普段から絶望し慣れることで、本当に辛い出来事・耐えがたい現実に出くわしたときの心理的ダメージを軽減しようとしているのだと思う。私の祖父と同じく、彼は彼なりに自分の弱い心を必死に守ろうとしているのだ。「絶望した!」は心の弱い大人である彼が編み出した、彼なりの生存術・心の防衛策なのである。


未来に希望を託す職を選んだ絶望男

望にとって「絶望した!」は、他人の気を引くためだけではなく、自分の心を守るための防御反応だということがお分かり頂けたと思う。アクションは大袈裟だけれど、やっぱり彼はこの世を疎んでいるということも。生きることが辛いんだということも。

だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。

「世の中に絶望したこの男は、何故未来の人材を育てる”教職”という仕事に就いているのであろう。」

という疑問だ。教師とは、いうなれば、教え子たちに自分の希望を託す仕事と言っても過言ではない。望から一番遠い仕事ではないか?

何故?


さよなら絶望先生」のカタルシス効果

さて、ここで次の画像をご覧いただきたい。「さよなら絶望先生」単行本の表紙である。

1巻 2巻 3巻 4巻
さよなら絶望先生(1) (講談社コミックス) さよなら絶望先生(2) (講談社コミックス) さよなら絶望先生(3) (講談社コミックス) さよなら絶望先生(4) (講談社コミックス)
5巻 6巻 7巻
さよなら絶望先生(5) (講談社コミックス) さよなら絶望先生(6) (講談社コミックス) さよなら絶望先生(7) (講談社コミックス)

どうだろう。

何か違和感のようなものを感じないだろうか。「女の子がたくさん出てくるのにそれを表紙に出さない違和感」はこの際置いといて欲しい。あくまで表紙を見た第一印象の話だ。

そう。主人公の糸色望非常に生き生きした表情をしているのである。どの巻も。

伏し目がちで人とあまり目を合わせて会話しようとせず、後ろ向きなことばかり考え、人の言うことに難癖を付けては絶望している。そんな本編中の彼とはえらい違いだ。表紙ではどの巻も目線を水平以上に上げ、胸を張って立ち(歩き)、表情も穏やかだ。


さよなら絶望先生」というタイトルに似つかわしくない。


私は思う。これが素の望なのかもしれない、と。


彼は自分の心を守るために絶望してみたり、他人の気を引くために自殺未遂したりするけれど、決して希望を失ったりはしていないのではないか、と。


J・K・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ(邦題:ライ麦畑でつかまえて)」で、主人公ホールデンをアントリーニ先生がこんな風に諭している。

「(前略)何よりもまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、激しい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君はそこから学ぶことが出来る―――君がもしその気になればだけど。そして、もし君に他に与える何かがあるならば、将来、それとちょうど同じように、今度はほかの誰かが、君から何かを学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ。」


望はこれを教諭という立場で体現しようとしているのではないか。私はこの辺りに、望が先生という職を選んだ理由があると考えている。

自分の”死にたがり”という”生き様”を生徒に見せ、
「弱い人間だって弱いなりに生きていく道があるんです」
「そんな悩みがなんですか 見てみなさい 私なんかもっと下らないことで悩んでいます」
と生徒(そして我々読者にも)に語りかけているんじゃなかろうか。

だとしたら、彼は智恵先生以上のカウンセラーだ。

みんなと絶望できる幸せ

日本は年間自殺者が3万人を超えたという。
これは交通事故で死亡した人より多い。
自分が交通事故に遭わないよう気をつけたり、周囲に気を配る人は多いが、自分が自殺しないように気をつけたり、隣の人が自殺しないように気を配る人間は果たしてどれだけいるだろう。ジョークではない。統計学的に、自分や他人が交通事故に遭うことより、自殺することを心配せねばならない時代になってしまったのだ。

こんな時代に生まれてしまった「さよなら絶望先生」。いや、生まれるべくして生まれたのか。ちょっと感慨深い。

一筋縄ではいかない生徒たちに囲まれながら、今日も望はどこかで絶望していることだろう。

「ネガティブだって別にいいじゃないですか」

絶望先生はそう、読者に語りかける。
そうさ、ネガティブは後ろ向きのポジティブさ。
10歩後退りしても1歩進めば9歩しか後退りしてないのと結局は同じなんだ。


何か失敗したのかい?不幸な環境に嫌気がさしたのかい?


じゃあ言ってみよう「絶望した!」と。


頑張るのはそれからでも遅くない。


今更帳消しにはならないけれど、けれど、-10を-9に変えることは今からだって簡単に出来る。そう、出来るさ。





あなたが、





1歩前へ踏み出せば――――――。


2007.06.11 ZGOK

*1:普通だったら猛抗議されるところだが、年長者だし、いつものことなのでみんなあきらめている。子どもの頃にチャンネル争いをしたことのない世代はこれだから怖い。w